深蒸し茶

2013年9月 茶況_No.291

平成25年9月2日

茶園では茶農家の人達が朝夕を中心に茶園管理を進めています。乾燥していた茶園は25日の雨で潤い、元気を取り戻しました。根の浅い茶園は乾燥と強い日射しにより、一部赤焼けした茶の木も見られただけに恵みの雨となりました。9月末から始まる秋冬番茶への影響は軽微なもので済みそうです。全般に価格が下押しているだけに燃料が高いと厳しい展開を強いられそうです。開設1年となった県茶業研究センターの「発酵茶ラボ」の利用者が増えています。静岡茶に付加価値を付け、茶業者の経営安定化図るのが狙いで、有料で施設を開放しています。各種発酵茶の製造機械を国内外から揃えていますので紅茶やウーロン茶など発酵茶の試作ができます。利用者は生産者にとどまらず、当初想定していなかった学生や県外の茶愛好者まで広がりをみせています。宇治市で開かれた第67回全国茶品評会の深蒸し煎茶の部で掛川市が9年連続の産地賞を獲得しました。今年は伝統農法「静岡の茶草場」が世界農業遺産に認定され、産地賞にも輝き、関係者は喜んでいます。生産者の熱意とその技術の高さにあらためて心より敬意を表します。

産地問屋は仕上・発送作業をこなしながら秋需に備えた販売計画を練っています。

8月の前半は荷動きもよく期待されたのですが、後半に入って猛烈な暑さから失速し、トータルでは前年比15%前後のダウンとなりました。最近は「水出し煎茶」は年間商品としてよく動きますが、他にも何か夏場対策になるようなものが必要です。最近の調査によりますと緑茶を毎日飲む人は60代が約6割、40代が約4割、20代が約2割と年代が若くなるに従い飲用頻度が低下する傾向です。不満点については、茶ガラの処理や急須の洗浄が面倒と回答した人が多く、改良の余地があります。緑茶の潜在需要は非常に高い結果がでていますので、消費に合った商品形態や提案、特に女性の関心が高い緑茶の機能性については検討する必要がありそうです。コーヒー業界のネスレ日本は4人、5人の世帯から1人、2人の世帯が増えているために一杯抽出型のマシンの普及に力を入れています。また半世紀に渡り使ってきた「インスタントコーヒー」の呼称をやめます。インスタントコーヒーの歴史は半世紀を超え、スーパーでの特売の目玉になりやすく「安かろう悪かろう」のイメージがつきまとっていました。技術革新が進み、もはやインスタントコーヒーではないと、今回の新商品は香も味わいも向上していると強調します。業界団体からは「消費者がレギュラーコーヒーと誤認する可能性がある」といった意見も出て困惑しています。消費者庁は「消費者が著しく誤認しない限りは問題ない」と静観する構えですが、従来の呼称では定義できない商品が出来たとき、どうすれば消費者に一番伝わるかを考え、柔軟に変えることも必要かもしれません。 茶業界もリーフ茶需要の減退、若い人の緑茶離れが危惧されていますが、歯止めをかけるためにも現在の消費に促した商品形態や提案が必要です。新製法や新提案で全面刷新の知恵をコーヒー業界から拝借……、いやいや自分で絞り出したいものです。

 

*秋冬番茶は注文生産となります。仕入を計画している商社さま、「発酵茶ラボ」の利用を検討している方は弊社まで、ご連絡ください。

 

八重の桜 「明日はどう生き抜こう」

 

今、かってない転換期に入っていることは、大方の人が身をもって感じています。ただ、それがどのような方向へ進んでいくのか、またそれぞれの仕事にどんな影響を及ぼすのか、それはいつごろになるのかといったことがはっきりしないため、特に手を打てないでいるというのが実情でしょう。また、このまま手も打たないでいては現状を維持できなくなるのではないかという大きな不安もつのります。新しい道を一刻も早く探り当てて、その方向へ舵を大きく切る適切な行動が、今求められているのです。

激動の時代を、日本の未来を夢見て大義に生き抜いた一人の女性がいます。会津に生まれた、山本八重という女性の人生は、幕末の激動に巻き込まれ、波乱の生涯を辿ることになります。1853年の黒船来航により、国内の社会不安は、その色をにわかに増していきます。二百数十年続いた幕藩体制の老朽化が行き詰まりを見せているときにアメリカから開国を迫られたのです。会津藩には将軍家に対する忠節を揺るがせてはならぬという「会津家訓」があり、この家訓第一条が、ずっしりと重い鎖として、会津藩の悲運を導くことになるのです。治安が悪化した京都で会津藩主・松平容保が火中の栗を拾うように京都守護職を受諾することに家臣は大反対で「薪を背負って火に飛び込むようなもの、お国が滅びますぞ」と必死に止めますが、会津の家訓を持ち出して受諾を迫られ、追い詰められて容保は引き受けてしまいます。1864年勤王の志士たちの集まった池田屋を襲撃して20数人を殺害するという事件が発生します。池田屋事件で直接行動したのは新撰組ですが、新撰組イコール京都守護職の会津藩という図式は討幕派の胸に深く刻まれ、やがて朝敵となった会津藩を討伐する新政府軍の執拗な攻撃の的になります。そして、容保には朝敵の名がかぶせられ、会津藩の本拠鶴ヶ城は砲撃されます。会津藩の砲術指南役をつとめていた家に生まれた八重は、子供のころからそうした武器に親しんで成長しました。男装した八重は七連発のスペンサー銃で新政府軍と戦います。「逆賊の汚名を着せで、会津を滅ぼしに来る者だぢを、私は許さねえ」八重の働きはめざましいものでした。総員五千人が籠城する攻防戦は奮闘むなしく降伏して鶴ヶ城攻防戦は終わりを告げます。その後、兄を頼って京都に出た八重は予想もしなかった第二の人生を歩み始めるのです。新島襄に出会いクリスチャンとなり同志社英学校の設立に奔走します。そして、日清・日露戦争は篤志看護婦として従軍し「日本のナイチンゲール」と呼ばれ社会奉仕に努めます。そして1932年、波乱にとんだ87年の生涯を閉じたのです。八重は時代の転換期、激動の時代を「今日も無事に生き延びた」「明日はどう生き抜こう」と自らの命を生涯燃やし続けたのです。

どんな企業であっても、今までどおりに事業を続けていられるとは断言できない時代になってきました。企業も生存確率を高めるためには経営戦略を見直すことが欠かせません。長年続けてきた商売の中身や方針を見直さねばならないのは、これまで常識だったビジネスの前提条件がことごとく変わり始めているからです。八重の生きた激動の時代のように「敵を知り、己を知り、勝つ方法を考える」という戦いの基本中の基本が経営環境の激変で求められているのです。いかに市場を分析し、戦略を立てて実行に移すのかが生存企業の必須条件となります。判断を誤れば、その先に道はない厳しい時代となりました。