深蒸し茶

2013年10月 茶況_No.292

平成25年10月8日

茶園では秋冬番茶の摘採が進められています。夏場の猛暑と少雨の影響から芽伸びが悪く生産量は減産傾向です。ドリンク関連業者と大手問屋を中心とした商いが主流で、荒茶360円前後と底堅く販売されています。気温が高く推移しているために、摘採が早過ぎると再萌芽する危険性があるため、気象条件や茶樹の生育を考慮しながら、適切な判断が求められます。秋の整枝時期が早いほど、来年の一番茶の摘採も早くできますので、秋冬番茶の摘採時期と摘採する位置は重要になります。

産地問屋は仕上・発送作業を進めながら、秋の販促の対応と歳暮商戦をにらんだ準備を進めています。今年の一番茶の減産から在庫への過剰感はありませんが、9月の出荷は前年比10~15%減となり、今後への不安は隠せません。今年は減産にもかかわらず不足感がないということはリーフ茶の需要が急速に落ち込んでいることが考えられるからです。世界の緑茶マーケットは拡大していますので、国内では多様化する消費ニーズへの対応が遅れていることも考えられます。そこでJA静岡経済連などでつくる全国茶生産団体は「茶需要拡大推進協議会」を設立して、需要拡大に向けた事業や研究に取り組み始めました。「緑茶エスプレッソ」や「CTC製法」(紅茶に使われている製法でCTC装置で生葉を粉砕した後に製造する。製造時間が大幅に短縮できる)。またリーフ茶の消費拡大策としては、茶の機能性、効能を継続的にPRすることと、新たな商品開発を通して需要を創造することなど需要回復に向けた方策を考えます。

消費地では朝夕の涼しさが増すにつれ店頭販売が忙しくなって来ています。「秋の売り出し」の実施や「歳暮商戦」の企画なども精力的に進めています。急須で淹れるのが面倒というお客さまにはティーバッグや茶ガラの処理が必要ない「粉末緑茶」などをすすめて、顧客の要望にきめ細かく対応します。

来年の4月の消費増税に合わせた商品の価格表示をめぐり「税込み」か「税抜き」か、小売業界が揺れています。食品スーパー業界は「税抜き」を基本とする方向性を示していますが、百貨店協会は「税込み」の総額表示を優先する考えを表明しています。どちらも本体価格と総額価格を併記しますが、どちらを大きく表示して、どちらを( )内表示にするかという表示方法の違いです。消費者からは支払額が一目で分かる「税込み表示の方法が望ましい」と9割の人が回答しています。大手スーパーはこの機会に自主企画商品の「プライベートブランドPB」の強化を考えています。コストをおさえやすく、増税による「値上げ感」を打消しやすいからです。「お値打ち感」を強め、主流商品に育てたい考えも見え隠れします。 気になる今後の景気予想ですが、悲観的な見方が大半です。働く人の給与が上がらなければ消費は高まらず、景気の本格回復にはつながらないと見ているからです。米国の債務上限問題や海外経済の先行き不安も深刻な懸念材料です。取引先のある社長さんは「増税後は生活が苦しくなると考え、価格政策に陥りがちだが、他店と差別化した上質な商品を強化して勝負したい」と手の内を明かしてくれました。

 

海賊とよばれた男

 

2013年本屋大賞第一位。全国書店員が選んだ、今一番売りたい本が「海賊とよばれた男」です。出光興産の創業者・出光佐三(いでみつさぞう)をモデルとした歴史経済小説の最高傑作と言われています。神戸大学を22歳で卒業した佐三は学友が大手海運会社や大手銀行へ就職するなか、商売を一から学びたいという考えから従業員3人の商店に入り、丁稚として大八車に小麦粉を積んで神戸の街を売って歩きます。学友からは「お前は学校のつらよごしだ」と非難を受けますが、自分の仕事に黙々と精勤します。そして、三年振りに故郷に帰ると商売に失敗した一家は夜逃げ同然で離散していました。ばらばらになった家族を呼び戻すためにも、独立して自分の店をもたなければと考えるようになります。その時、佐三の人柄と将来性を見抜いた支援者があらわれ6000円という大金を提供されます。「お金を貸すとは言うてへんで、あげる言うたんや。返さんでいい、利子もいらない、君が好きに使え」と言い、その条件は「家族で仲良く暮らすこと」「自分の初志を貫くこと」「このことは誰にも言わんこと」の3つでした。25歳になった佐三は世話になった神戸のお店に迷惑を掛けないように九州の門司で店を旗揚げして家族を呼び戻します。これからは石油の時代が来ると考えていた佐三は石油の販売を始めます。当時は特約店の協定がありましたので、門司の特約店は対岸の下関には販売できませんでした。そこで佐三は手こぎ船を使って関門海峡の海の上で漁船に軽油を納品します。下関支店からは、何とかしろという抗議が殺到しますが、海の上で売っているので下関では売っていないと主張します。いつしか佐三は「海賊」とよばれるようになります。

その後、満州をはじめ上海やアジア諸国に進出して販路を広げます。第二次世界大戦前、アメリカが石油の日本への輸出を禁止します。窮地に陥った日本は東南アジアの油田地帯を確保するため米英に宣戦布告し、そのため日本の石油政策は帝国石油が誕生して、国策化されます。大戦の敗戦により佐三は海外資産の全てを失い膨大な借金だけが残りました。ちょうど還暦の年です。ゼロからの出発というよりマイナスからの出発でした。

終戦後、仕事は皆無という状態でしたが「愚痴をやめよ。ただちに建設にかかれ」と

社員に檄を飛ばしラジオの修理業から始めます。「社員は家族だ、馘首はならん」とひとりの社員も解雇しませんでした。敗戦後、日本の石油エネルギーを牛耳ったのは巨大国際石油資本の「メジャー」です。日本の石油会社はつぎつぎとメジャーの傘下に入りますが、佐三は外資が入らない民族資本にこだわります。日本の石油業界が外国に支配されないための使命感からでした。やがて朝鮮戦争が勃発。日本はアメリカ軍の補給基地となり、反共の防波堤として日本に次々と製油施設が建設されます。朝鮮戦争により日本経済は復活するのです。

佐三は、以前からメジャーと戦うには戦う刀が必要と考えていました。その戦う刀とはタンカーであり原油の製油施設であり、それを貯蔵するタンクです。消費者に安く届けるためには原油で輸入して日本で精製する。官僚的な石油公団の統制や旧体質の石油業界に反発していた佐三はタンクを購入し、タンカーを建造してこの機を待っていました。

外国メジャーの目を盗み、いち早く外国からガソリンを輸入して「アポロ」と名付けて全国の営業所で驚くほどの低価格で販売しました。そんな佐三のもとにイランの石油を買わないかという申し出が舞い込んだのです。

それまでイランの石油はイギリスの国営会社「アングロ・イラニアン」に支配されていました。イランが悲惨な状況から抜け出すにはイランの油田を国有化するしかないとイラン議会は石油国有化を可決します。利権を失ったイギリスの国営会社「アングロ・イラニアン」は猛反発し、イランの原油を積んだイタリアのタンカーを拿捕して「イランの石油を購入した船に対してイギリス政府はあらゆる手段を用いる」と宣言します。これによりイランにタンカーを送る会社はなくなりました。佐三は「イラン国民は今、塗炭の苦しみに耐えながらタンカーが来るのを一日千秋の思いで祈るように待っている。これを行うのが日本人であり課せられた使命である」と重役会議で宣言。イギリス軍はじめ、アメリカのメジャーや日本政府などあらゆる方面に秘密が漏れないようにして、所有するタンカー「日章丸」をイランに向けて出港させるのです。ホルムズ海峡は英海軍に封鎖されていますので、行き先をサウジアラビアと偽り、目的地イラン・アバダン港を目指します。予定行動を知っていたのは船長と機関長の二人だけでした。世に言う「日章丸事件」です。英海軍の包囲網をかい潜り、イランのアバダン港に入ったときのイラン人の歓喜、長い経済封鎖によって困窮に喘いでいたイランの民衆にとって、遥か極東の国からあらわれた巨大タンカーは救世主のように見えたのかもしれません。そして大勢の日本人の歓迎を受けて川崎港に帰港しました。この事件は産油国との直接取引の先駆けを成すものであり、日本人の目を中東に向けるきっかけになりました。その後、世界の石油を支配してきたメジャー(国際石油資本)はアラブ産油国の「OPEC」に石油王の座を明け渡すことになります。敗戦で自信を喪失していた当時の日本で、国際社会に一矢報いた「快挙」として受け止められたのです。

佐三は生涯、何度も窮地に立たされ、倒産寸前の危機を何回も経験し、自殺説までささやかれましたが、絶対に諦めずに初心を貫くという信念が原動力となりました。初心とは消費者のために良い物を安く提供するという信念。社員は家族であるという思い。

「人は有利な立場に立てばそれを利用しようとする。力を持てばそれを行使したくなる。ヨーロッパは物を中心とした世界。日本は人を中心とした世界です。日本の高度経済成長は終焉を迎え、日本は新しい道を模索しなければならなくなっているが、日本人の誇りと自信を失わないこと。それさえ失くさなければ何も怖れることはない。日本人にかえれ。」の言葉を残して波乱に満ちた95年の生涯を閉じます。

佐三が死去したおり昭和天皇が「国のため ひとよつらぬき尽くしたる きみまた去りぬさびしと思ふ」との歌を贈ります。一点の曇りもない信念とゆるぎない情熱が佐三の生涯に奇跡を起こし続けたのです。気骨の経営者、出光佐三「海賊とよばれた男」の一読をお奨めします。