深蒸し茶

2012年3月 茶況_No.275

平成24年3月5日

茶園では茶農家の方達が新茶期に向けて施肥などの茶園管理を進めています。ここ数回の適度な降雨で茶園は潤い良好な園相を保っています。茶業研究センターや各JAや機械メーカー主催の茶期前研修会が各地区で開催されています。放射性セシウムの新基準値が変わり、4月から飲用液で10ベクレル/k当が適用されますので、その説明会にはたくさんの人が参加しました。検査する基準は、これから決定されますが、日本茶インストラクター協会が定めるおいしいお茶の出し方、茶葉10グラム、湯430ml、90℃、1分間の線が濃厚です。飲用茶の場合は製茶の1/50から1/80の数値になりますので24年度産のお茶からセシウムは検出されませんのでご安心ください。

今季新茶の生育状況は平年に比べてやや遅れ気味とみられます。年明けから続いた寒波や干ばつ、2月には最低気温がマイナスを記録する日が続くなど、静岡では近年にない寒冷の冬でした。県内各地の梅の名所や河津桜も10日から15日遅れの開花となり、観光名所の物産販売店も対応に大わらわです。今後の雨量や萌芽後の気温の推移によっては状況も変化しますが、今のところ平年よりやや遅れると思われます。寒さが厳しかった分、新芽はしっかりと休眠していますので高い品質が期待できます。新茶に備えて指導機関では防風対策や防霜ファンの点検を呼び掛けています。国と県では農林漁業の「六次産業化」を推し進めていますが、競争がますます激化すると心配する声も聞かれます。六次産業とは第一次(生産)を基礎に第二次(加工)、第三次(販売)を掛け合わせた経営形態で生産者自らが加工・販売を手掛ける業態です。それぞれの流通の垣根が取れることにより、競争はますます激しくなることが予想されます。

産地問屋は県で主催する衛生管理「T-GMP」の説明会に参加すると同時に生産農家や消費地取引先と情報交換を行い、消費動向を生産者に伝えながら商品企画や販売計画の検討を進めています。昨年の2月は「ためしてガッテン」効果があって売上が急伸しましたので、今年の2月は前年比20~25%減と苦戦している問屋が目立ちます。在庫は適正在庫に近い状態で推移していますので、動揺はありませんが、次の一手が見えないのが不安材料です。二番茶と秋冬番茶の引き合いは多方面からありますが、各問屋とも手持ち在庫は薄いようですので若干値上がり気味です。今年は上級茶は平年並、中・下級茶が特に下値に行き次第強くなる相場展開が予想されます。主力の一番茶の人気が高く、順調に売れていかないと生産者・問屋・小売店ともに苦しい展開を強いられることになります。それには、数年先には人口の半数を占めるであろう65歳以上の人達に一番茶の上級茶を急須で飲んでもらうような対策が急務です。それには、「おいしい」と同時に「健康によい」を業界全体で訴求することは必須です。

消費地では家庭用のお茶の販売に努め、新茶期に向けた商品企画や販促計画を練っています。お客さまのニーズは日本社会の閉塞感や景気低迷などの社会情勢に敏感に反応して、お客さまの期待感や価値観が相当変わってきているのを肌で感じています。「顧客の求めるニーズに応えられないと売上はすぐに落ちる」、「品ぞろえや価格だけでなく、顧客の求める判断基準は大きく変わってきている」と話してくれました。所得や消費が縮小する将来が見え隠れしているだけに、本当に強いお店になることの難しさがうかがわれます。

 

どんなに時代が変わっても、夢があるから前を向ける。

 

映画「ALWAYS三丁目の夕日‘64」が話題です。オリンピックの開催国となった日本は高度成長の真っただ中にあり、活気にあふれていた東京夕日町三丁目が舞台です。第1回の「三丁目の夕日」は2005年に公開され、異例のロングヒットを記録。日本アカデミー賞を獲得しました。東京タワーが少しづつ背を伸ばしていた昭和33年の物語です。日々の暮らしは裕福ではありませんが、幸せはみんなのすぐ隣にありました。初めてのインスタントラーメン「チキンラーメン」が世に出た年でもあります。その後、続編を望む多くの声に応え2007年に「続・三丁目の夕日」が公開され前作を上回る大ヒットとなり、日本中を感動の渦に巻き込みました。続編は東京タワーが完成した翌年、昭和34年の下町の人々の絆がテーマです。あれから5年「三丁目の夕日’64」がふたたびスクリーンに帰って来ました。舞台は昭和39年、新幹線の開業と東京オリンピック開催の年です。ゆっくりと時間が流れ、みんなが協力しあって生きていた時代、笑いあり涙ありの心温まる物語が再び綴られています。

東京タワーが完成した昭和33年に世界で初めてのインスタントラーメン「チキンラーメン」が発売されました。1袋35円の価格です。その後、高度経済成長の時代の波に乗ってインスタントラーメンは、めん類好きの日本人の支持を勝ち取り大量生産されるようになりました。2010年の国内一人当たりインスタントラーメン消費量は42食。年間の国内生産量は53億食。世界の消費量はというと944億食に達しています。今や国民食というより地球食となったインスタントラーメンです。インスタントラーメンを発明したのは日進食品創業者の安藤百福(ももふく)です。安藤百福がインスタントラーメンの開発を思いついたのは、戦後の大阪・梅田の闇市で、中華そばの屋台にできた大衆の長い行列を見たからだったそうです。ラーメンはまだ「中華そば」などと呼ばれる時代、忙しく働く人たちにとって短時間で食べられるチキンラーメンの登場は願ってもないことでした。百福が理事長を務めていた信用組合が倒産して全財産を失い、チキンラーメンの開発はどん底から始まりました。大阪府池田市の借家の庭に建てた3坪の小屋で、朝から晩までこもりきり、試作品を作っては捨てるを繰り返す毎日だったそうです。睡眠は平均4時間。お湯をかけるだけで出来上がるラーメンを1年かけて完成させました。「チキンラーメン」は爆発的に売れ、誕生してわずか2年後には月産10万食に達しました。どん底から執念の発明を果たした47歳の百福は「人生に遅すぎるということはない」の言葉を残しています。常に大衆を意識し、口癖は「安全で安くておいしい食品を作りたい。」その一念が大衆に支持される食品を誕生させたのです。

インスタントラーメン誕生の時代は東京タワーの完成・新幹線の開業・東京オリンピックの開幕、高層ビルや高速道路の建設ラッシュと終戦後10年経過した、物がないから欲しいの希望に満ちた世の中でした。私の家に白黒テレビが来ると近所の人たちが大勢押しかけ、裸電球の下の八畳の板の間で、近所の人たちと一緒になってテレビを食い入るように見たものです。冷蔵庫が入ると頭を突っ込んで涼をとったり、呼び出し電話が来て「○○さん電話ですよ」と近所へ呼びに行かされたものです。

映画「三丁目の夕日」を見ると、ゆっくりと時間が流れ、みんなが協力しあって生きていた時代が懐かしく思い出されます。昭和30年代の日本は今のように物が豊かではなく、食事も質素でしたが楽しく思いやりにあふれた時代でした。54年前の昭和33年に「東京タワー」が完成しましたが、今年の5月には「東京スカイツリー」がオープンします。これから東京スカイツリーの周りでは、どんなドラマが展開されるのでしょうか。どんなに時代が変わっても、夢があるから前を向ける。「三丁目の夕日‘64」は日本人が忘れていた何かを思い起こさせる映画でした。