深蒸し茶

2017年4月 茶況_No.330

平成29年4月10日

 

 

 

 

経営者になった山中伸弥

 IPS細胞の研究で2012年にノーベル賞を受賞した山中伸弥氏の今の仕事は研究者ではありません。自らが中心となって立ち上げた研究所の所長としてトップマネージメントを担っています。壮大なビジョンを掲げ、ブレない姿勢を武器に、その実現に人生を捧げます。そんな山中教授は現在、京都大学IPS細胞研究所の所長として研究者や事務スタッフなど500人近くを率いるトップリーダーです。山中所長のマネジメント手腕に対する内外の評価は高く時に「経営者・山中伸弥」と評されるそうです。山中の家は大阪で、小さなミシン部品工場を営んでいました。山中は、その長男として生まれ、子供のころは工場が遊び場でした。母も家業を手伝い、両親が懸命に働く姿が脳裏に刻まれ、浮き沈みの激しい中小企業経営の現実も肌身で知っています。小学生の時は高級住宅地に住んでいましたが、高校になると会社が傾き、東大阪市の工場の2階に引っ越します。山中の父は自分のような苦労を息子に味あわせたくなかったために早くから違う道に進むことを勧めました。「おまえは経営者に向かない、後を継ぐな」と言われ医者を目指しました。神戸大学医学部を卒業し、整形外科医として働き出しますが、山中には整形外科医として致命的な弱点がありました。手術に時間がかかりすぎるために、先輩指導医に「ジャマナカ」とあだ名をつけられて叱咤される日々が続きます。「自分は医者に向いていないのでは」そんな疑問が芽生えた時期に、父が58歳の若さで死去。難病患者を、どうしても救えない事例を目の当たりにし、医者以上に多くの患者の命を救う可能性を秘めた研究者への転向を決意します。そんなとき、尊敬する先輩医師の一言に救われます。「メスで患者を救おうと頑張っても、生涯で5万人以上は助けられない。でも、新たな治療法を見つければ何百万人、何千万人と救えるはず。大勢の患者が待っているよ」山中は先輩医師のこの言葉で、自らの原点に引き戻され、より多くの患者を救うため研究者の道を志します。山中は「手術下手」を自認するが先輩医師は「手術が丁寧だから時間がかかっただけ、経験さえ重ねれば必ずうまくなった」と否定します。山中のIPS細胞の作製成功から10年。医療応用は大きな進歩を見せています。最近では他人の細胞から作ったIPS細胞を移植できる可能性が見えてきました。そのために、いち早く臨床応用するには優秀な人材の確保が急務ですが、職員の正規雇用は難しく、現在500人近くいる職員の9割以上が非正規の有期雇用。その歪みを正そうと「IPS細胞研究基金」を立ち上げました。山中の願いは研究資金を確保し職員全員に雇用の安定と民間企業並みの給料を確保することです。IPS細胞は世界中から関連特許が出願され、重要な特許を欧米のベンチャー企業などに握られれば、高額になり一般の患者に届かなくなります。そのために特許を押さえる資金も必要です。山中には座右の銘としている経営者としての言葉があります。「ビジョンとハードワーク」この二つさえあれば研究者として経営者として何をやっても人生で必ず成功するという信念です。山中のビジョンとは何か。「より多くの患者を救う」。経営者になった今も、人生を貫くこのビジョンにブレはありません。ビジョンを達成するために、研究者から経営者に立場を変えたのです。IPSを広く知ってもらおうとiPadをもじってIPSと命名したように、山中の持っている経営者としてのセンスはビジョン遂行の大きな武器になります。健康な人の細胞からIPS細胞を作って、備蓄する「IPS細胞ストック事業」に力を入れ、外部への提供も開始しました。実現すれば治療にかかる費用も時間も大幅に短縮できます。「より多くの患者を救う」という揺るぎないビジョンは山中に科学者としての成功とともに経営者としての実力と魅力も引き出しています。